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牛さんブログ (清書版)

  どうして「牛根生」というのか
                11月24日 11:40  牛根生

 
多くの人が私の名前に興味を持ちます 
“牛”の名字はもちろん、さらには“牛根生”と言う名前 
最初から牛乳を作る運命だったんじゃないのって
昨今、名字と職業の奇妙な一致について話すネット仲間も少なくありません
彼らはさらにこの本名について尋ねてきます
あなたのもともとの本名もほんとに牛根生なの? それとも牛に関わる仕事をするようになってから改名したの?と

 
実は私 生を受けて一ヶ月もしないうちに 人生で最初の変遷を経験しています
1958年、私はフフホト郊外の貧しい農民の家庭に生まれました
父親は一介の公務員、生産隊の小隊長でした
その当時、税金(年貢)は現金で払ってました
父親は小隊長なので率先して払わないといけません
しかしお金がありません  さてどうしましょう?
色々考え抜き、子どもを売るという方法にいきつきました
私は5人の子どものうち一番年下で 生まれてまだ一ヶ月も経っていませんでした
父親は心を鬼にして私を売りました。金額は50元でした
当時の50元といったらものすごい額でした。1元が銀貨1枚に相当しました
都会の人でも一ヶ月一人5元あったら生活できました 
農村ならたった3元で事足りました
  
私を買った養父は名字が“牛”といい、牛を育てる仕事をしてました
その時からです。私が牛との解けない縁を結んだのは・・・

 
“牛根生”この名前をつけたのは養父です。養父母は子宝に恵まれなかったので
もらい子をすることによって根を生やし、子孫を残そうと望み、“根生”と名付けたのです
  
そこはきわめて特殊な家庭でした:養父は解放前に警官として徴発されました
国民党が大陸から逃げ出す前、災難なことに 書類上だけの仮の肩書き「警察長」を与えられてしまいました
養母は国民党高官の妾とされ、旧社会の中で上へ下へ翻弄されました
このような特殊な二人があのような特殊な歴史背景のもとで 当然良い思いをすることはできませんでした

 
解放戦争中、高官の婦人という身分を受けてしまった養母は財産を分散して隠しました
直接人に渡したり、送ったりして、いろいろなところに少しずつ預けました
20世紀の60年代は生活が苦しく、養母は私を連れて預けた財産を返してもらいに回りました
ですが みんなしらばっくれるばかりか 我々母子を追い払うのでした
昔の友達たちが みんな手のひらを返して裏切るのです
もしお金がなかったら かえってこんなに多くの人に恨まれることはなかったでしょう
俺のだおまえのだ、金のあるなし、人情の冷暖、幼い私にはとてもとても深い体験となりました
これは学んで知ったものではなく、体験して知ったものでした

 
文革の時、養父母は引きずり出されて批判を受け、道掃除の懲罰を受けました
母親は病が重く、掃除をしきれませんので私が替わりに掃除をしました
私が8,9歳の頃です
私が掃除しているのを同級生が見て、笑われるのが嫌だったので、毎朝4時に起きて道を掃きました
  
ですがそうしていても やはり同級生に知られてしまいました
それから私の悪夢が始まりました
母親が批判を受けているとき私は傍らに寄り添い、何度も何度もひどいののしりを受け
学校に行けば行ったで 男の子も女の子も関係なく、機嫌が悪いと私を殴りました
ある時は私の周りに人だかりができ、順番に私を殴るのでした
私ができることと言えば壁の角にうずくまり、頭を守ることだけで
殴り返しも口答えもしませんでした
後年、「なんで殴り返さなかったの」と聞く人もいました
わたしは「殴り返さなければ殴られる数も少なくて済むし、もし殴り返したなら
それこそずっと殴られ続けるに違いないよ」と答えてました

 
ですが私もずっと殴られ続けるわけにはいきません
戦っても勝てないので、方法を考えざるをえませんでした
仲間になり、そして他人を動かす方法を…
私は母親から1、2毛のお金をもらって みんなで一緒に使いました
その結果、みんな私の話を聞くようになり、さらにしばらくすると 
私が何々をしろと言うとその通りにし、誰々を殴れと言うとその通りに殴るようになりました
そしてわたしはだんだんとガキ大将になり、けっこう有名になりました
「金を集めると人が離れ、金を使うと人が集まる(財集人散、財散人集)」
この理念を持ったのはいつからですかと聞かれたら、きっとこの頃にちがいないと答えます
もちろん、その当時はこのようなきちんとした理念を持っていたわけではなく
ぼんやりと芽生えた程度でした

 
私が14歳の時、養母は他界しました
20歳になる前に養父も亡くなりました
取り残された私は飢えに苦しみ、寒さに凍え、殴られもしました
そして 私は政府へ救済を申請しました
もし党の配慮と各界の援助がなかったら 今の私はありません
私の党に対する認識は全部体得して得たもので、学んで得たものではありません

 
養父が死んだ後、私は父の跡を継ぎ、養牛場に入りました
養父は最初から最後までずっと牛を養い、牛乳を送り出して38年
私も牛と関係して今年で28年、父子2世代合わせると牛の事業は66年になります

 
月日は流れ、物や人も過ぎ行き、昔をしのんで、涙あふるる 
(訳者注:↑この表現素敵!)
養母が私に言いきかせた2つの言葉は一生忘れることができません
ひとつは「知りたければ ひっくり返せ(逆にしなさい)」
もうひとつは「損は福、得は禍」

 

    
※ 日本語が多少変なところもありますが、それは牛さんの真意を正確に伝えるため 
直訳風にしているからです
決して私の日本語のレベルが低いからではありません  決して…
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by あにぅ  at 23:41 |  蒙牛乳業 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑
Comments

あにぅさん、はじめまして。
ヴぁると申します。
徹子の部屋等、ブログをいつも楽しく拝見させて頂いております。

牛さんブログの翻訳、おつかれさまでした。大作ですね!
激動の中国現代史を味わった気分です。牛さんも大変苦労をされて今の成功があるのですね。
お陰でちょっと中国への理解が増したような気がします。

「本当の親」編も期待してますよ!
by ヴぁる 2006/12/03 02:26  URL [ 編集 ]

あにぅさん、こんばんは。ヴぁるさんも、こんばんは。

大作の翻訳、ありがとうございました。以前、無駄な何とかと書いた記憶があるんですが、謹んで訂正いたします。すばらしい!

しっかし、こういうええ話を聞くのはいつも株価が上がったあとなんやなあ・・・ この前の段ボール屋さんの話を読んで、こんな経営者やったんか、しまっった~~って思ったっけ・・・ つらつらつらと目論見書読んでるだけではアカン。来年はもっとカンカンになって取り組むぞ~
by shanghai_ii 2006/12/03 02:42  URL [ 編集 ]

みなさん コメントどうもありがとうございますっ!
ドラさんの他にも読んで下さる方がいるなんて さらに気合いが入ります
もうビンビンですっ!
バリバリ訳しますっ!
今日にでも……と言いたいとこですが ジラすのが恋愛のマナーだと
アンジェリーナ・ジョリーだかアゴヒゲ・ジョリーだかが言ってたので週末にでも…
はい 言い訳バチコイです
by あにぅ 2006/12/06 20:20  URL [ 編集 ]
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